ローマ Roma_2
ローマ Roma 2
16. Basilica di San Paolo fuori le mura 聖パオロ・フオリレムーラ聖堂
17. Chiesa di San Pietro in Montorio 聖ピエトロ・インモントリオ聖堂
18. Basilica di San Pietro in Vincoli 聖ピエトロ・インヴィンコリ聖堂
19. Basilica di San Pietro in Vaticano ヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂
20. Chiesa di Santo Stefano Rotondo 聖ステファノ・ロトンド聖堂
21. Basilica di Santa Cecilia in Trastevere 聖チェチリア・イントラステヴェレ聖堂
22. Mausoleo di Santa Costanza 聖コスタンツァ霊廟
23. Basilica di Santa Croce in Gerusalemme サンタクローチェ・インジェルサレンメ聖堂
24. Chiesa di Santa Maria in Via (Madonna del Pozzo) サンタマリア・インヴィア (マドンナ・デルポッゾ)聖堂
25. Chiesa di Santa Maria dell'Orto サンタマリア・デロルト聖堂
26. Santa Maria ad Martyers (Pantheon) サンタマリア・アドマーターズ聖堂 (パンテオン神殿)
27. Basilica di Santa Maria degli Angeli e dei Martiri サンタマリア・デリアンジェリ聖堂
28. Santa Maria dei Miracoli e Santa Maria in Montesanto サンタマリア・デイミラコリ聖堂とサンタマリア・インモンテサント聖堂
29. Basilica di Santa Maria del Popolo サンタマリア・デルポポロ聖堂
30. Chiesa di Santa Maria Della Pace サンタマリア・デラパーチェ聖堂
16. Basilica di San Paolo fuori le mura 聖パオロ・フオリレムーラ聖堂
地下鉄B線のバシリカ・サンパオロ駅から歩いていける距離にあります。高い鐘楼を目印に進めば良いのですが、地下鉄からオスティエンセ (Ostiense) 通り経由で聖堂に入る場合は、聖堂の正面左手の扉口からになります。
聖堂の大きさを実感するためにも、聖パオロ通りに出て、聖堂正面の扉口から入ることをお勧めします。
ヴァティカン市国の聖ピエトロ大聖堂、聖ジョヴァンニ・インラテラノ大聖堂、サンタマリア・マッジョーレ聖堂に並ぶ、ローマを代表する4聖堂の一つです。
8世紀にはロンバルド族に、9世紀にはサラセン族により略奪されましたが、その都度改修されて来ました。9世紀のヨハネ8世教皇は聖堂を取り囲む壁を建設しています。1823年7月に発生した火災は聖堂をほぼ全壊させてしまいました。
聖堂の前庭に剣を持って立つ聖パオロ像は19世紀の制作で、中央扉口の扉は聖パオロと聖ペテロの生涯が刻まれていますが、11世紀に作成されたオリジナルは、聖堂内に保管されています。
右端の扉は11世紀にコンスタンティノープルで作成され、グレゴリウス7世法王に奉納されたものです。
聖堂内は五廊式の大きな聖堂で、20本のコリント式の円柱が四列に並ぶ様は壮観です。
天井には新聖堂を奉献したピウス9世教皇の紋章が飾られ、アーチの上には初代の聖ペテロから歴代の法王の横顔が掲げられています。
使徒の立像は19世紀から20世紀の制作です。
凱旋門アーチのモザイク画は5世紀にテオドシウス帝の娘のガラ・プラチディア (Galla Pracidia=Ravennaの項ご参照ください) が奉納し、罹災後に修復されたものです。中央のキリストの脇に4大福音書記者の表象が並び、天使が脇侍し、24人の長老が並んで描かれています。
中央の主祭壇にはカンビオ (Arnolfo di Cambio=聖チェチリア・イントラステヴェレ聖堂の項ご参照ください) 1285年作の斑岩製の円柱が支えるゴティック様式で造られた円蓋が立ち、その下に聖パオロの墓所があります。なお、この場所は、当初から動かされてはいないとのことです。
奥のアプシスには13世紀ビザンティン様式を踏襲したヴェネチア派のモザイク画で、玉座に坐すキリストの足元にはホノリウス13世教皇が小さく描かれています。
アプシスの左手の聖秘跡礼拝堂には14世紀の木製の十字架と聖パオロの立像があります。聖パオロが繋がれた鎖、聖母の母親である聖アンナの片腕、聖テモテの聖遺骸など、多くの聖遺物が収納されています。
17. Chiesa di San Pietro in Montorio 聖ピエトロ・インモントリオ聖堂
トラステヴェレ地区のジャニコロ (Gianicolo) の丘を下り、パオラの泉 (Fontana dell'Acqua Paola) からガリバルディ通りを更に下ると左手にあります。
サンタマリア・トラステヴェレ聖堂からは裏手に廻り、細い道を通って急な階段から坂道を登って行くと右手に見えてきます。坂の途中にはキリストが処刑されたカルヴァリオの丘を模して、各段階の浮彫を施したプレートが設定されています。
ここは、聖使徒、聖ペテロが磔刑に処されたとされる場所です。その跡地に15世紀になってスペイン人の修道士、フェルディナンドとイザベラを奉献した修道院が再建されています。
聖堂の正面は二層に分かれ、左右から登る階段の上に一か所の扉口があり、上層部に薔薇窓が在るシンプルな造りで、屋根は切り妻です。
聖堂内は単廊式で中央祭壇はダニエラ・ダヴォルテッラ (Daniele da Volterra) 作の「キリストの洗礼」が掲げられ、右手の礼拝堂の祭壇画にはヴァザーリ (Vasari) の肖像を描き込んだ「聖パウロの帰依」が見えます。
なお、中庭には1502年にブラマンテ (Bramante) が殉教者に奉献して設計した聖堂があります。キリスト教の伝説に基づき、初期キリスト教時代の聖堂を模した円形の小さな建物で、様式は古代ローマの神殿を継承しています。
外側には同心円の三重の階段が在り、周囲を円柱が囲み、上部には光の良く当る手摺の付いた列柱廊がありますが、これらの円柱が聖堂の全ての寸法の基礎となっています。円蓋の鼓胴部や壁龕、窓や扉の大きさをも決定しています。円柱の寸法を変えることで、建物の規模を自由に変更できるのです。
ドーム内には鍵を持つ聖ペトロの座像が安置されています。
この聖堂は1470年にピエロ・デラフランチェスカ作の「理想都市の透視図」に見られる円形の神殿や、1500年頃のペルジーノ作の「聖母の婚約」に見られる神殿、1504年のラファエロ作同名の「聖母の婚約」で見られる神殿と同系列の建物で、盛期ルネサンス時代の神殿と呼べるものです。
18. Basilica di San Pietro in Vincoli 聖ピエトロ・インヴィンコリ聖堂
地下鉄B線のカヴール駅からカヴール通りを渡り、急な階段を登ると聖堂の前に出ます。
5世紀にシクスタス3世教皇に奉献されていることから、それ以前に存在していた聖堂です。
15世紀から16世紀に、ロヴェーレ (Rovere) 家出身の後にシクスタス4世教皇となるフランチェスコ枢機卿と、ユリウス2世教皇となるジュリアーノ枢機卿により改築されています。
1475年にジュリアーノ枢機卿により聖堂の扉口前に前廊が付け加えられ、16世紀その上に建屋が追加されています。
聖堂内は三廊式で、ドーリア式の柱が支える装飾された天井にはフレスコ画が描かれています。
中央主祭壇の下にはエルサレムの監獄で聖ピエトロが繋がれていた鎖とローマの監獄で繋がれた二本の鎖が、奉納されています。
伝説によると、2本の鎖が13世紀に一緒になった時、一本に繋がったと言われています。更に下には旧約聖書に出てくるマカベ一族の聖遺物が収納された4世紀の石棺が祀られているのが覗き見られます。
アプシスは二ヵ所の窓を挟んで三面のフレスコ画と円蓋にもフレスコ画があります。
左面には牢獄に収監されていた聖ペトロを救い出す天使と、出獄する聖ペテロが描かれています。
ユリウス2世教皇は1505年にフィレンツエからミケランジェロを召喚し、聖堂の中央に3層の高さで40人の像が立つ巨大な大きさの自身の墓所の設計を命じました。ミケランジェロは彫像用の大理石を求めて、カラーカ (Carrara) に8ヶ月滞在している間にブラマンテに制作を命じていたため、ミケランジェロはフィレンツエに戻っています。
1513年にユリウス2世教皇が崩御したためこの企画は頓挫しましたが、ミケランジェロが作成した「モーゼ像」は、現在の左側廊に設置されています。なお、この時にミケランジェロは「奴隷」(現在フィレンツエとパリに収蔵)も制作しています。
ミケランジェロ作の「モーゼ像」を見に多くの観光客が訪れています。
19. Basilica di San Pietro in Vaticano ヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂
ヴァティカン市国にあるカソリック教の大本山です。
2世紀に聖ピエトロの墓所の上に聖所を建設したのを聖堂の嚆矢とします。
コンスタンティヌス帝の時代に建設された最初の聖堂は五廊式で、幅23.6メーター、長さ120メーターも有る大きな聖堂で、349年に完成しました。
その後廃墟となっていましたが、1452年にニコラウス (Nicolaus) 5世教皇の命で再建が決定され、1506年ユリウス (Julius) 2世教皇の時、ブラマンテ (Bramante) により着工され、1626年に完成しています。
聖堂前の広場に立つオベリスクは1586年に、近くに埋まっていた塔を移設したものです。
長さが186.3mあり、ミケランジェロが設計したドームは132.5mの高さがあります。
正面は1606年から14年にカルロ・マデルノ (Carlo Maderno) により建設されています。
聖堂内には11ヵ所の礼拝堂と45ヵ所の祭壇があり、教皇の主祭壇は16世紀末のクレメント (Clement) 8世の時代に造られ、20mの高さのある螺旋状の柱が支える天蓋は17世紀のベルニーニの作品です。
正面奥に見える巨大な聖ピエトロの椅子もベルニーニ作で、聖ピエトロが使用したとされる木製の椅子 (実際にはCharles the Baldの戴冠式(875年)に使用された椅子で、フランスで造られローマに持参した椅子とされます) が包含されています。
ミケランジェロ作の「ピエタ」像やポッライウォーロ作の「イノチェント8世の墓所」、カノーヴァ作「クレメント13世の墓所」、等多くの秀作が収容されています。
聖ピエトロ大聖堂は観光案内書や美術書でも広く取り上げられています。
ローマを訪れる多くのカトリック信徒が訪れる聖堂ですが、特に教皇が聖堂前に集まった群衆に祝福を与える日曜日などは聖堂前の広場は人で埋まってしまいます。
隣接するシスティナ礼拝堂は教皇の公的礼拝堂です。
最近は団体観光客が多く、聖堂の扉口までに長蛇の列ができています。
【参考】聖遺物「キリストの聖顔布」(Veronica: ウェロニカ)
聖ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂には多くの聖遺物が収納されていましたが、聖ピエトロ大聖堂もまた特別に重要な聖遺物を所有しています。それはキリストがカルヴァリオの丘に十字架を担って行進していく途中に、ウェロニカ[1] と呼ばれる女性がキリストの顔の汗を拭ったとされる布で、そこにはキリストの聖顔が写し取られたとされています。
フランス王フィリップ2世は1191年、十字軍として出陣した祭に、帰路ローマを訪れ、チェレスティン (Celestine)3世教皇により「ウェロニカ」の聖顔布を特別に見せてもらった記録が残されています。
1193年に同教皇は「ウェロニカ」の聖顔布を聖母の祈祷所の正面にあった聖体用祭壇に収めたとされています。
また、インノチェント (Innocento)3世教皇は1208年に「ウェロニカ」の聖顔布の宗教行列を制定し、新たにローマ市内にサント・スピリト救済院 (Hospital of Santo Spirit)をサンタマリア・インサッシア聖堂内に設置し、10月の公現祭 (Epypany)の後の最初の日曜日に、「ウェロニカ」の聖顔布を顕示して、聖ピエトロ大聖堂から救済院まで行進を行っています。
この行進に参列する者は告解の秘蹟を1年間赦免される特権を得ることができるとしていました。またこの行事の最後には、ヨハネ福音書のカナでの婚礼に模して、教皇自ら1000人の外国人の巡礼者と300人のローマ市民にパンとワインを振る舞ったとされ、「ウェロニカ」の聖顔布は一気に崇敬の対象となっています。
1215年の行列の際には教皇の担いだ「ウェロニカ」の聖顔布が風で上下逆さまになった、とイングランドの聖オールヴァンズ聖堂の僧、マッシュウー・パリスが記録に残しています。
なお、この「ウェロニカ」の聖顔布は1527年、神聖ローマ皇帝カール5世がローマ掠奪をした際に紛失したとされていますが、掠奪を免れ17世紀にベルニーニ作の壁柱の中に移されたとも言われています。その壁柱の下方には、モーキ作の聖顔布を持つウェロニカの石像が配置されています。
また、聖ピエトロ大聖堂には、聖ペテロが最初のローマの司教として坐ったとされる椅子があり、聖ペテロの聖遺骨を展観させることは出来なくても、聖ペテロの椅子は何時でも公開することができることで、益々多くの巡礼者が訪れるようになって行きました。
[1] Veronicaと呼ばれる女性は、福音書にでている匿名の「長血を患う女」と、キリストの汗をぬぐった布でTiberiusu皇帝の病を治癒させた女、それに処刑に向かうキリストの顔の汗をぬぐった女、が挙げられます。
20. Chiesa di Santo Stefano Rotondo 聖ステファノ・ロトンド聖堂
コロッセオ (Colosseo) の入口の裏手にあるクラウディア (Claudia) 通りを東南に向かい、広い交差点のラルゴ・サニタミリターレ (Largo Sanita Militare) を過ぎ、左手のステファノ・ロトンダ通りに入り、直ぐに右に曲がると見えてきます。
敷地内に入るまでは、聖堂に高さが無いので見えません。
エルサレムの聖墳墓聖堂を擬して4世紀末から5世紀初め頃に建設された円形の聖堂です。
正面には四本の円柱が高いアーチを支える柱廊が見え、その上は垂直に伸びる高い壁が見えるだけで、円形の聖堂そのものを見ることはできません。直径が40mあり、聖堂内には16世紀に殉教者のフレスコ画が描かれました。
なお、通常は閉められており、中には入れません。
(注:Santa Costanza 聖コスタンツア聖堂の項を参照ください)
Chiesa di Santo Stefano Rotondo Webサイト
http://www.santo-stefano-rotondo.it/index.php?option=com_content&view=article&id=1&Itemid=5&lang=it
21. Basilica di Santa Cecilia in Trastevere 聖チェチリア・イントラステヴェレ聖堂
テヴェレ川をガリバルディ橋で渡ってトラステヴェレ地区に入り、ソンニーノ (Sonnino) 広場からトラステヴェレ通りを進んで二本目をサンティーニ (Santini) 通りに左折し、進んでジェノヴェージ (Genovesi) 通りと名前が変わって一本目を右折するとチェチリア通りに出ます。
通りを進むと右手に聖堂と同名の広場が見えてきます。聖堂はその奥に在ります。
聖堂の前庭には大きな壺が置かれた噴水があります。正面にはイオニア式の円柱が並ぶ柱廊があり、右手には12世紀建設の鐘楼が見えます。
230年に殉教したとされる、聖チェチリアを祀る祠は、5世紀には個人宅に存在していました。聖チェチリアの聖遺骨は、9世紀のパスカル (Paschal) 1世法王が夢に導かれてアッピア街道の地下墓地で発見されました。製遺骨は、ただちに祠に移遷され、聖堂にまで拡張されました。
クレメント8世教皇の時代、1599年にスフロンダーティ (Sfrondati) 枢機卿が聖チェチリアの石棺を現在の内陣に移遷した際、聖チェチリアの聖遺骸に損傷はなかったとされています。
聖堂内の中央主祭壇の下にある、ステファノ・マデルノ (Stefano Maderno) 1599年作の聖チェチリアの白大理石の彫刻はその際の姿を現していると言われています。
中央祭壇にはアーノルフォ・ディカンビオ (注: Arnolfo di Cambioについては、ローマの聖パオロ・フオリレムーラ聖堂の項をご参照ください。) 作の繊細な祭壇天蓋(Ciborium)があります。
中央祭壇奥のアプシスの半円蓋にはビザンティン様式のモザイク画があります。中央にキリストが立ち、キリストの右手には聖パオロ、聖アガタが描かれ、その左端にはパスカル1世教皇が描き込まれています。 一方、左手には聖ピエトロ、聖チェチェリアとその夫の聖ウァレリアヌスが並んで描かれています。
背景に虹色の雲がたなびき、草木にも明るい色彩が見られ、人体の表現にビザンティン様式とは異なる、ローマ風が感じられます。両脇の棕櫚の木は旧約聖書と新約聖書を表し、不死鳥はキリストの再来を表象しています。
諸聖人の足下には天の子羊とその脇に12使徒を表す羊が描かれています。
聖コスモと聖ダミアーノ聖堂のアプシスのモザイク画、サンタマリア・インドムニカ聖堂のアプシスのモザイク画、聖プラッセーデ聖堂、サンタニェーゼ・フオリレムーラ聖堂、等のモザイク画と比較してみると、構成に類似性が見られると同時に、相違点も感じ取ることができます。
右側廊奥にはスフロンダーティ枢機卿がグイド・レーニ (Guido Reni) に描かせた「聖チェチリアの斬首」の絵があります。
なお、13世紀のピエトロ・カヴァリーニ (Pietro Cavallini) の傑作「最後の審判」の大きなフレスコ画がありますが、限られた日時しか公開されていません。
地下聖堂には左側廊から入りますが、ローマ帝政時代の民家跡が見え、聖チェチリアが納められていたとされる石棺もあります。
聖チェチリアは音楽の守護聖人とされていますので、音楽関係者が多く訪問する聖堂です。
22. Mausoleo di Santa Costanza 聖コスタンツァ霊廟
地下鉄B線がボローニャ駅で枝分かれして新線が建設されたため、地下鉄で訪問できるようになりました。地下鉄の場合は、サンタニェーゼ通りの坂道を登って行くことになります。バス利用の場合にはミケランジェロが作成したピア門 (Porta Pia) を抜け、ノーメンターナ (Nomentana) 大通りから訪問することもできます。
言い伝えでは、コンスタンティヌス帝の娘 (若しくは孫娘) の聖コスタンツアは、らい病を患っていましたが、ある晩、聖アグネスの墓所で寝ていると、夢枕に聖アグネスが現われ、キリスト教への改宗を勧められ、目が覚めるとらい病が治癒していた、とのことです。
聖コスタンツアはキリスト教に改宗し、聖アグネスの墓所に隣接して大きな聖堂を建設し、聖堂の左側に自身の墓所を円形で建設しました。
7世紀にホノリウス1世教皇は聖堂を拡大して改築しています。この円形の墓所が13世紀に聖コスタンツア聖堂となっています。聖コスタンツアが建立した大きな聖堂は、現在ではアプシスの位置がやっと判る程度にまで崩壊しています。
円形の聖堂の前には楕円形の前室があり、同心円状の集中式で中央にはドームが載っています。
内円周には二連のイオニア式柱頭飾りのついた対になった合計24本の円柱が並び、見事なアーチを形成しています。
聖堂内は中央に祭壇が設置され、扉口の対面には聖コスタンツアが埋葬されたと言われる赤斑岩の棺が置かれています。なお、実物はヴァティカン美術館に収容されています。
外側の回廊は蒲鉾形天井で、4世紀のモザイク画で埋め尽くされています。
豊かに実った葡萄を収穫し、車で運び、足で踏んで葡萄酒にしている、一連の作業をしている人物を描いたものの他、鳥、動物、天使などが描かれています。
メダイオンの中には肖像画が描かれ、果物、食器、鳥が描かれ、魚が図案化されたもの等、繊細な細工で色彩豊かなモザイク画を見ることができます。中世には「バッカスの神殿」と呼ばれていたそうです。
神がモーゼに戒律を授けている (一説に、キリストが聖ピエトロに鍵を授けているとの解釈も有ります) モザイク画では、地球に坐す神は豊かな髭を蓄えており、多くの棕櫚が描かれています。
キリストが聖ピエトロと聖パオロに聖書を授けているモザイク画では、両端にエルサレムとベツレヘムを表象する建物と旧約聖書と新約聖書を表象する棕櫚の木が描かれ、聖ピエトロと聖パオロに脇侍されて中空に立つキリストの足下からは4本の川が流れ出て、その脇には羊が描かれています。
これらは特に初期キリスト教時代のモザイク画として重要なものです。
非常に繊細、多彩で、細かく見て行くと時間がいくらあっても足りません。 あらかじめ時間にゆとりを持って訪問することをお勧めします。
Basilica di Sant'Agnese fuori le Mura サンタニェーゼ・フオリレムーラ聖堂の項も参照ください。
23. Basilica di Santa Croce in Gerusalemme サンタクローチェ・インジェルサレンメ聖堂
地下鉄A線のサンジョヴァンニ駅で下車し、聖ジョヴァンニ・インラテラノ聖堂と反対側に東に向かい、城壁に沿って市電の走るカルロ・フェリーチェ (Carlo Felice) 通りを進むと右手にあります。聖堂の手前にはローマの劇場跡があります。
3世紀のローマ帝政時代にはコンスタンティヌス帝の母親ヘレナが住む宮殿があった場所です。
329年聖ヘレナはエルサレムに巡礼に出かけ、キリストが処刑された十字架の一部をローマに持ち帰り、同年に死去しています。言い伝えでは、巡礼に出かけた聖ヘレナ自信がカルヴァリオの丘でキリストが処刑された十字架を発見し、その信憑性を確認したうえで、一部をエルサレムに保存し、一部をローマに持ち帰ったとしています。更にカルヴァリオの土を持ち帰り、その土を敷き詰めた上に聖十字架礼拝堂を建設したと言われています。しかしながら、ローマで真実の十字架への崇拝が始まったのは7世紀以降です。
コンスタンティヌス帝 (恐らくは子息) は母親が持ち帰った聖遺物を祀るために、宮殿の一部を聖堂に改造しています。12世紀のルチウス2世教皇はそれまでの単廊式の大きな聖堂を三分割し、右手に鐘楼を建設し、同時に床上げも実施していますが、聖十字架礼拝堂は当初のままとしています。
なお、聖十字架礼拝堂はルネサンス時代まで単独の建物でしたが、聖堂内に取り込み、アプシスの右手から行けるようになっていますが、高さが異なり地下聖堂のようになっています。
外観も内装も18世紀にヴェネディクツス13世法王により改築された大きなバロック様式の聖堂で、当初の面影は残っていません。
聖堂内は三廊式で、床は色大理石で模様が描かれ、中央主祭壇には天蓋が設置され、アプシスには15世紀後半のロマーノ (Antoniazzo Romano) 作の聖ヘレナの聖十字架発見に係わる伝説が描かれています。
上には荘厳のキリストのフレスコ画があります。
聖十字架礼拝堂にはペルッツィ (Baldassare Peruzzi) 作のモザイク画があります。
十字架を持つ聖ヘレナとされる彫像は、元はローマ帝国時代のローマ神話の中のジュノー女神の彫像とみなされています。
アプシスの左手から進むと聖遺物室に行けます。
カリヴァルオの丘でキリストが磔刑に処せられた時の十字架の一部、キリストが磔刑にされた時に打たれた釘の1本、磔刑のキリストが被らされた荊の冠の2本の刺、が重要な聖遺物として収納されています。
この他にも、キリストの磔刑の際に十字架の上に掲げられたタイトルの一部、聖トマスの指、が保管されています。これらの聖遺物を崇敬するために多くの巡礼者が訪れ、中世にはローマの重要な7ヵ所の巡礼聖堂の一つとなっています。
またキリストの遺体を包んだとされる聖骸布も展示されており、中央には顔と思われる影が認められます。
(注:ヴィチェンツアのドゥオーモに収容されている聖骸布の項も参照ください。)
なお、聖遺物室への入口にはキリストの脇で磔刑に処せられた盗賊の内の善性を示した盗賊に使われた十字架の一部もあります。
24. Chiesa di Santa Maria in Via (Madonna del Pozzo) サンタマリア・インヴィア (マドンナ・デルポッゾ)聖堂
ポポロ (Popolo) 広場からヴェネチア (Venezia) 広場まで、ローマ市内を東西に二分するコルソ (Corso) 大通りからトリトーネ (Tritone) 通りに入ってすぐ右側にあります。観光名所のトレヴィの泉も近くに在ります。
聖母の描かれた陶器の板が誤って井戸に落ちたところ、井戸水が噴きあがり、聖母の描かれた陶器の板は地上に戻って来た、との奇跡譚があり、井戸のあった場所に建てられたのが聖堂の起源とされています。
奇跡の井戸水を求めて多くの巡礼者が訪れる聖堂です。
聖堂はマドンナ・デルポッゾと呼ばれていますが、「聖母の井戸」の意味です。
聖堂の正面は16世紀末のレイナルド (Carlo Rainaldo) 作で、バロック様式の聖堂です。
中央一ヵ所の扉口の脇にはコリント式の柱頭飾りの二本の円柱があり、見上げると花綱の間に天使の顔が浮彫にされています。
聖堂は三廊式で、柱は青い大理石を基調として構築されており、床には色大理石で模様が施されています。
祭壇も多彩な色大理石で構成されています。
中央祭壇奥のアプシスには胸に多くの剣が刺さった聖母の苦しみを表す聖母像が飾られています。脇にはオルガンが見えます。
25. Chiesa di Santa Maria dell'Orto サンタマリア・デロルト聖堂
トラステヴェレ地区にある聖堂です。テヴェレ川をガリバルディ橋で渡ってトラステヴェレ地区に入り、ソンニーノ (Sonnino) 広場の先の左側にあるマスタイ (Mastai) 広場に面して、タバコ工場があります。左手から時計回りに、タバコ通り (vicolo Tabacchi) を抜けて、右折すると聖堂に出ます。タバコ工場の裏側にあります。
聖堂の前の通りがアニチア (Anicia) 通りで、聖堂の正面の通りがオルト (Orto) 通りです。
聖堂には扉口が三ヵ所ありますが、中央扉口の両脇にはイオニア式の柱頭飾りを付けた太い円柱があり、左右に4本ずつある片蓋柱も同様にイオニア式の柱頭飾りが施されています。
聖堂内は三廊式で、華やかなバロック様式です。中央祭壇には聖母子画が置かれ、奥のアプシスには聖母伝が描かれています。厚い信仰を集めており、病気の水夫のための施設院がありました。
1582年、九州の大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)がローマに派遣した、天正の使節団の一員だった中浦 ジュリアン(Beato Giuliano Nakaura) の殉教を悼んで記念碑が置かれています。
430年以上前に遥か日本からローマのトラステヴェレを訪れた青年達がいたことを思い起こさせる聖堂です。
解説用の小冊子(イタリア語)が用意されています。
26. Santa Maria ad Martyers (Pantheon) サンタマリア・アドマーターズ聖堂 (パンテオン神殿)
観光案内書などではパンテオンの名前で記載されています。パンテオンとは全ての神と言う意味です。ローマ帝政時代の建物の原形を留める代表的な建築物です。
聖堂前にある大きなロトンダ広場はいつも大勢の観光客で混雑しています。
紀元前27年頃にアグリッパ (Agrippa) が建設し、80年に罹災した神殿は再建されましたが、118年にハドリアヌス帝がローマ神話の神々を祀り、扉口を今までの南側から現在の北側に改築しています。
608年に、ボニファティウス4世教皇はビザンティン帝国のフォーカス皇帝から建物を譲り受け、ローマの神殿はキリスト教の聖堂となりました。キリスト教の聖堂に変更された後、諸聖人を祀る聖堂となり、聖母と殉教者の聖堂となっています。
大きな円柱の様な建物でその上に載るドームの中央には直径9mの天窓 (Oculus) が開いています。ドームの高さは直径と同じ43.3mで、ドームを支える鼓胴形の壁の厚さは6.2mにもなります。
正面の扉口部分には全体で16本の御影石の円柱が支える、破風の載った、ローマ神殿の前に良く見られる建物 (Pronaos) が接続しています。
扉口が一か所のため、聖堂内に入ろうとする人と、出ようとする人とが上手く流れず、扉口の前は大混乱です。
聖堂内は天窓から光を取り入れるだけにもかかわらず、想像以上に明るく見えます。内円周に沿って円柱が並び、所々に祭壇が設置されています。内装は長い時代を経て改修されています。
現在では、聖アタナシウス、聖ラシオの聖遺骸が安置されていますが、ラファエロ (Raphael) の墓や、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の墓があります。
27. Basilica di Santa Maria degli Angeli e dei Martiri サンタマリア・デリアンジェリ聖堂
テルミニ駅前の広大な広場を越えた対面にディオクレティアヌス帝の浴場跡の国立博物館 (Museo Nazionale Romano Terme di Diocleziano) がありますが、その遺構に包含されている聖堂です。聖堂の扉口は西側の共和国広場に面しています。
伝承ではディオクレティアヌス帝の浴場は4万人のキリスト教徒の苦役により建設されたと言われています。1561年に、ピウス4世法王はミケランジェロに命じて浴場跡を聖堂に変更させています。ミケランジェロの設計では、ローマ帝国時代の遺跡を生かし、外観をそのまま活用して造られたので、正面扉口は特に廃墟のような印象を与えます。そのため、聖堂の表示が無いとローマ帝政時代の浴場跡と思ってしまいます。
初期キリスト教時代にはローマ帝政時代の神殿を聖堂に転用することが起きています。従って、神殿の円柱をそのまま活用した聖堂や、正面扉口前の空間、上部の破風に神殿の構造を認められることがあります。12世紀以降、ロマネスク様式やゴティック様式に改修された後も、一部に当初の構造が残されている場合や、地下のクリプトにローマ帝政時代の遺構が見られる聖堂が多く残っています。
しかし、この聖堂は16世紀に、古代遺跡を活用する意図で設計されたと言う発想の違いがあります。
聖堂は大きな浴場のほんの一部を占めているだけにすぎませんが、現在でも身廊の長さ、高さにローマ帝政時代の建築の巨大さを感じ取ることができる、異色の聖堂です。
聖堂の扉口は浴場の高温浴室の一部で、入った円形の部屋は浴場の微温浴室でした。身廊に進む右手には18世紀作成のカルトジオ会の創設者の聖ブルーノの立像があります。広い翼廊は6本の御影石で支えられていますが、多くの石像や軍人の墓が納められています。
中央祭壇奥のアプシスにはドゥーカ (Antonio del Duca) 1543年作「天使に崇拝される聖母」が、周囲にはドメニキーノ (Domenichino) 作「聖セバスチャンの殉教」、マラッタ (Carlo Maratta) 作「キリストの洗礼」があります。
隣接している博物館内の回廊は元カルトジオ会の修道院だった所です。緑の多い庭園の様な空間は、都会の喧騒を忘れさせてくれます。
28. Santa Maria dei Miracoli e Santa Maria in Montesanto サンタマリア・デイミラコリ聖堂とサンタマリア・インモンテサント聖堂
ヴェネチア広場からコルソ大通りがまっすぐに伸びており、突き当りに在るのが、ポポロ広場です。その広場に出る手前の両脇に並んで建つ聖堂で、その外観がそっくりなことから、双子聖堂と呼ばれています。
ポポロ広場から見て右手がサンタマリア・デイミラコリ聖堂で、左手がサンタマリア・インモンテサント聖堂です。どちらも17世紀に建てられたバロック式の聖堂です。
ドームを載せた聖堂の前に四本の円柱が支える柱廊が張り出し、破風の両脇には聖人の立像があります。
鐘楼は左右対象の位置に配置されています。
この二つの聖堂はカルロ・レイナルディ (Carlo Rainaldi) の設計ですが、当時の建築家としては、ベルニーニ (Bernini) やボロミーニ (Borromini) が有名で、この二人に対抗して自身の技量を公にするために設計したと言われています。
1589年に移設され、ポポロ広場の中央に立つオベリスクから見ると、コルソ通りを中心に両脇に右にリペッタ (Ripetta) 通りと左にバビーノ (Babuino) 通りが伸びていますが、右手のサンタマリア・デイミラコリ聖堂側の土地が広いため、全く同じ形態の聖堂を作るだけのゆとりがありませんでした。
そこで、とちのにゆとりの有った、サンタマリア・デイミラコリ聖堂のドームは円形ですが、土地の狭い、サンタマリア・インモンテサント聖堂のドームを楕円形にすることで、見た目を左右同型にすることに成功しています。
なお、コルソ大通りとは、この通りで、騎手のいない馬だけを走らせた競馬競技が行われたことから「競争(コルソ)」から付けられた名前です。
29. Basilica di Santa Maria del Popolo サンタマリア・デルポポロ聖堂
ローマの北を護るポポロ門 (Porta di Popolo) の脇にあり、広大なポポロ広場に面しています。聖堂の左側面はフラミニオ広場 (Piazza Flaminio) でこの先に地下鉄A線のフラミニオ駅があります。
起源は1099年の墓所にあった礼拝堂とされています。13世紀初めにグレゴリオ9世教皇が拡張し、1472年にシクスタス4世教皇の命により、バッチョ・ポンテリ (Baccio Pontelli) とアンドレア・ブレーニョ (Andrea Bregno) 設計のもと初期ルネサンス様式で建設されました。その後アプシスはブラマンテ (Bramante) やベルニーニ (Bernini) により追加されています。
扉口は三ヵ所あり、上には丸窓がある典型的なルネサンス様式です。階段を登って中央の扉口から入りますが、上には聖母子の浮彫が見えます。
聖堂内は三廊式で、太い束ね柱が高い天井を支えています。ステンドグラスはグリエルモ・ダマルテッラ作「聖母伝」です。
中央祭壇はカラッチ (Annibale Caracci) 作で、正面には13世紀のビザンティン様式で描かれた「聖母子」(Santa Maria del Popolo) が掲げられています。上にはピントゥリッキオ (Pinturicchio) 作「デルフィの宣託」のフレスコ画があります。
多くの彫刻が眼を引きますが、ローマの有力な家々が競って自家の礼拝堂を飾り立てた結果、多くの著名芸術家の絵画や彫刻で飾られ、美術館の様な聖堂となっています。
右側廊の最初はシクスタス4世教皇を出したロヴェーレ (Rovere) 家の礼拝堂で、ピントゥリッキオ (Pinturicchio) 作、「幼子キリストの礼拝」(L’adorezione del Bambino) が、続いてキーボ (Cybo) 家の礼拝堂は大理石と輝石で飾り立てられています。
キージ(Chigi)家の礼拝堂はラファエロ・サンツィオ (Raffaelle Sanzio) の設計で、祭壇にはセバスティアーノ (Sebastiano del Pimbo) 作のフレスコ画があり、左右をベルニーニとロレンゼッティ (Lorenzetti) 作の彫像が飾っています。
中央祭壇左手のチェラージ (Cerasi) 家の礼拝堂にはカラヴァッジョ (Caravaggio) のフレスコ画や、「聖ペテロの磔刑」、「聖パウロの帰依」があります。
アンドレア・サンソヴィノ作の「アスカニオ・スフォルツア墓碑」、「ジロラーモ・ロヴェーレ墓碑」など名士の墓も見られます。
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30. Chiesa di Santa Maria Della Pace サンタマリア・デラパーチェ聖堂
ナヴォナ広場の北端にあるネプチューンの噴水から、西にロレネージ (Lorenesi) 通りを進むと左側にサンタマリア・デラニマ聖堂があり、その奥にサンタマリア・デラパーチェ聖堂が並んでいます。細い道が取り囲んでおり、聖堂の周囲にも開けた土地はありません。
12世紀には既に小さな聖堂がありましたが、1480年にシクスタス4世法王はトルコとの戦いに勝利したことを記念して再建させています。
1504年にはブラマンテ (Bramante) により回廊が付け加えられ、17世紀半ばにアレッサンドロ7世教皇が、ピエトロ (Pietro da Cortona) に命じて、聖堂正面を多くの柱が支える破風の有る構造とし、八角形のドームの両側が後ろから凹面で建屋の半ばまでせり出して包み込むように見せ、正面には6本のドーリア式の円柱が支える半円形の前廊を設置すると言う、バロック様式に改築させています。
聖堂の奥行きは矩形で短いのですが、接続する中央祭壇上には八角形のドームが載る変わった形態をしています。
チェージ (Cesi) 礼拝堂とドームはサンガーロ (Antonio da Sangallo il Giovane) のフレスコ画で埋められています。
右手の最初のキージ (Chigi) 礼拝堂はラファエル (Raphael) 1514年作の「四人の巫子」のフレスコ画があり、左手の最初のポンゼッティ (Ponzetti) 礼拝堂にはペルッツイ (Baldassarre Peruzzi) 作のフレスコ画があります。