エステ Este
エステ (Este)は、イタリア北東部 ヴェネト州パドヴァ県 (Padova)にある町。
【アクセス】
パドヴァ(Padova)から鉄道でボローニャ(Bologna)に向かって南下し、温泉で有名な保養地のアーバノ・テルメ (Abano Terme)を過ぎて、モンセリチェ (Monselice)でマントヴァ(Mantova) 行に乗り換えると次の駅です。
接続が上手くいくと、乗換を含めても1時間ほどで到着します。マントヴァからは1時間半かかります。ボローニャからは特急で接続が良いと1時間半で来れます。
駅員の居ない無人駅ですから帰りの切符もあらかじめ手配しておいた方が良いと思います。
駅は街の南側にあり、旧市街まで北に向かって、1kmほど歩くことになります。
【歴史】
街の歴史は非常に古く、紀元前10世紀の青銅器時代から人が住み着いていたとされ、紀元前3世紀ころにはローマの支配下に入っています。
アウグストゥスはアクティウムの戦(Battaglia di Azio) の後、この地にローマ軍を駐屯させたことから、ローマの植民都市アステス(Ateste)として発展し、ローマの市民権を持つまでに至っています。
その後、アッティラ (Attila)など、北方からの異民族により侵略され街は崩壊してしまいます。
10世紀になって神聖ローマ帝国の貴族の一人がイタリア辺境伯となり、この地に進出して築城し、ローマ時代からの地名に因んで自らの家名をエステ家と称しています。
城は14か所に物見櫓を備えた高い城壁で囲まれその周囲は1kmにも及んでいます。街の北側の小高い丘の上に、天守閣の跡が見られます。
街を流れる川は街の三面を囲む水濠のように丘の手前で凹型に湾曲し、城はそのへこんだ上に蓋をするかのように陣取っています。
1240年になってエステ家は本拠地をフェッラーラ (Ferrara)に移しますが、それまで城下町として繁栄しました。その後数次にわたり地方の豪族の争奪の対象となり、15世紀初めにヴェネツィアの傘下に入ることになります。
16世紀以降はヴェネツィアの豪族が別荘として豪華な屋敷を造成しています。その一つ、モチェニーゴ家(Mocenigo)の屋敷は現在では考古学博物館 (Museo Nazionale Atestino)となっていますが、元々はエステ家の城の一部であったものを買収して改修したものです。
またヴェネツィアの貴族コンタリーニ家の屋敷 (Villa Contarini)もあります。現在ベンベニーテ荘 (Villa Benvenuti)と呼ばれる屋敷ももとはヴェネツィアの富裕層の屋敷でした。
【街を歩く】
城址は手入れの行き届いた庭園公園 (Parco Letterario dei Trovatori)になっています。
街の中には多くの聖堂が建設されており、往時の繁栄を偲ぶことができますが、その多くが聖堂としての役割を果たしておらず、過去の遺物と化しています。
その役割を果たし終えた聖堂も併せてご紹介することで、街の歴史を感じることができるかと思います。
見どころは城を始め多くありますが、日帰りで見て回れるほどの大きさです。
【その他の情報】
「アーモイタリア旅行ガイド」→「エステ (Este)について」
1. Duomo di Santa Tecla 聖テクラ大聖堂
駅前から旧市街に向かってアメディオ通り(Via Principe Amedeo)を進み、街の三方を囲む水濠を渡ると通りの名前はウンベルト通り(Via Principe Umberto)と変わります。そのまま進むと、街の中心にある大広場 (Piazza Maggiore)に出ます。
大広場から北を見ると丘の上に城址が見えます。ここから通りの名前はカブール通り(Via Cavour)と変わり、トリエステ広場 (Piazza Trieste)を過ぎると正面に見えて来ます。
ローマの神殿の跡に4世紀ころに建設された聖堂を元としています。16世紀の対抗宗教改革時期に大幅に改装されましたが、1688年の地震で崩壊してしまい、1720年にドームを持った聖堂として再建されています。
聖堂の正面は粗石のままで、扉口が三か所あるものの、壁がそそり立つような構造になっています。その一枚の壁が後ろの大きな楕円形の筒のような構造物を隠しているように見える、特徴のある斬新な構造をしています。神殿のような柱は残っていません。
左側に聳える大きな鐘楼の基礎部分は8世紀のものですが、同様に18世紀になって再建されています。
聖堂内は楕円形で両脇に礼拝堂が並んでいます。
中央主祭壇にはティエポロ(Giovanni Battista Tiepolo)の「ペストの惨禍からエステの解放を祈る聖テクラ」1759年作、が掲げられています。天井に描かれたヤコポ(Jacopo Amigoni)の「聖テクラの殉教」も18世紀の作品です。
聖堂内の作品は公式サイト「Duomo Santa Tecla」の「Opere d'arte(アート作品)」からご覧になれます (リンク画像右側の🔍をクリックすると画像が表示、左側の🔗をクリックすると説明が表示されます)。
2. San Francesco 聖フランチェスコ聖堂
ドゥオーモの前のガリバルディー通り(Via Giuseppe Garibaldi)を南西に向かうと右側に高い鐘楼が見えて来ます。聖堂は通りから奥まった場所にあります。
聖堂の正面は中央に一か所扉口があり上には丸窓があり、両脇の片蓋柱が三角形の破風の屋根を支えています。正面からは切妻屋根の小さな聖堂に見えますが、奥で旧来の聖堂と接続していると思われます。
また隣接して三階建ての回廊があり、修道院を併設していたと思われます。
全体としては大きな聖堂です。
なお、現在では高等学校 (Istituto Istruzione Superiore Atestino)になっており、聖堂としての役割を果たしていません。
そのまま通りを進み16世紀に建設された聖フランチェスコ門 (Porta di San Francesco)を抜けると、街を取り囲む水濠に出ます。
3. San Martino 聖マルティーノ聖堂
街の中心の大広場(Piazza Maggiore)からウンベルト通り(Via Principe Umberto)を東に進むと右手に聖堂の左側面が見えてきます。聖堂の手前でサンマルティノ通りに右折すると聖堂の正面に出ます。
11世紀より前に建設されたと見なされるている、街でも一番古い聖堂です。ロマネスク様式の聖堂で、扉口は一か所でアーチ型の窓が左右に二つあります。左右対称形でなだらかな屋根が伸びており、高さより幅のある簡素な建屋です。
交差廊の上には13世紀に追加されたドームが載り、その左手に聖堂に接触して方形の鐘楼がありますが、見て分かるほど外側に傾いています。
煉瓦と石を積み上げた非常に頑丈な造りのように見えますが、崩壊の恐れもありそうなほど歪んでいます。聖堂内にあった絵画類は博物館に収容されているようです。
廃墟のように見え、聖堂としての役割を果たしているとは思われません。
4. San Michele Arcangelo 聖ミケーレ大天使聖堂
街の中心の大広場(Piazza Maggiore)からプリンチペ・ウンベルト通り (Via Principe Umberto)を東に進み、聖マルティーノ通り(Via San Martino)に右折して聖マルティーノ聖堂 (San Martino)の正面を通りすぎると左手にあります。
街を取り囲む水濠のすぐ手前です。
聖堂の前から水濠に沿ってモナケ通り(Via Monache)になりますが、聖堂の前には広場もなく、全体を見渡すことはできません。
正面には扉口が一つで両脇にコリント式の片蓋柱が三角形の破風を支える堂々とした造りです。側面には化粧板は無く煉瓦積みのままです。
現在では店舗 (Il Club Ignoranti di Este)になっており、聖堂としての役割を果たしていません。
なお、聖堂の前からモナケ通り (Via Monache) を西に進むと聖ロッコ聖堂 (San Rocco)の右側面に出ます。
5. San Rocco 聖ロッコ聖堂
街の中心にある、大広場 (Piazza Maggiore)の西側をマッテオッティ通り(Via Giacomo Matteotti)で南西に向かうと、正面に大きな時計の付いた頑丈な塔(Torre Civica di Porta Vecchia)が見えてきます。
この塔の奥が水濠になっており、旧市街へ入る中央の門となっています。
聖堂はこの塔の手前左側にあります。
聖堂の正面は狭いながらも市場の立つ広場になっています。
15世紀末に建設され、16世紀に改築されてきています。扉口が一か所の切妻屋根造りの聖堂です。正面は白漆喰で化粧されていますが、側面は煉瓦積みのままです。
奥に鐘楼が聳える、しっかりした造りです。鐘楼は18世紀に現在の玉ねぎの載る型になっています。
聖堂の右側面を水濠に並行するモナケ通り (Via Monache)を東に進み、サンロッコ通りと交差するところが、聖堂の後陣で、鐘楼が聳えています。なお、そのままモナケ通りを進むと聖ミケーレ大天使聖堂(San Michele Arcangelo)の正面に出ます。
聖堂内は単廊式です。
なお、現在では催物の会場になっており、聖堂としての役割を果たしていません。
展示会時の内部写真は以下のURLにあります (クリックすると拡大)。
6. Santa Maria della Consolazione サンタマリア・デラ・コンソラツィオーネ聖堂
ドゥオーモの前のガリバルディ通り(Via Giuseppe Garibaldi) を南下して聖フランチェスコ門を通り、水濠を渡って旧市街から出てアレッシ通り(Via Isidoro Alessi)を進むと突き当たりにあります。
聖堂の正面は西にありますが、扉口は封鎖されています。
コンソラツィオーニ通り (Via Consolazioni)に沿った聖堂の左側面は城塞のように窓一つない造りですが、半ばに扉口があります。聖堂にはここから入っていたと思われます。後陣の脇に鐘楼が見えます。
回廊もある大きな聖堂ですが、現在は閉鎖され、大規模な修復工事が行われているようです。
内部の回廊の写真はこちら↓(クリックすると拡大)。 https://fondoambiente.it/luoghi/complesso-religioso-delle-consolazioni
上記サイトに「教会は10年間閉鎖されており、現在大規模な修復工事が行われています」との記述あり。
7. Santa Maria delle Grazie サンタマリア・デレ・グラツィエ聖堂
駅前から旧市街に向かってアメディオ通り(Via Principe Amedeo)を進み、街の三方を囲む水濠を渡って、通りの名前がウンベルト通り(Via Principe Umberto)と変わってすぐ左側にあります。
通りの前には広場もなく、煉瓦と石積みの飾りのない聖堂ですが、右手には独立した鐘楼が聳え、裏手に回ると八角形のドームを載せた大きな聖堂であることが分かります。
15世紀後半にドメニコ派の修道院として建設され、18世紀初めに改築されています。その後ドメニコ派は追放されましたが、聖堂は地区教会として再開されています。ドームはリッコボーニ(Giuseppe Riccoboni)により19世紀末に追加されています。
聖堂内は単廊式のラテン十字形で、主祭壇にはヴェネツィアから寄贈されたビザンティン帝国時代の聖母子のイコンが掲げられており、内陣にある聖歌隊席は馬蹄形に設置されています。
聖堂内は多くの聖人や聖職者などの立像の他、バロック様式の絵画で飾られています。エステ出身の画家ザンキ(Antonio Zanchi)作の聖ドメニコ、等18世紀の絵画が見られます。
8. Santa Maria Della Salute サンタマリア・デラ・サルーテ聖堂
ドゥオーモの前のガリバルディー通り(Via Giuseppe Garibaldi)を南下して聖フランチェスコ門を通り、水濠を渡って旧市街から出て、突き当りにあるサンタマリア・デラ・コンソラツィオーネ聖堂 (Santa Maria della Consolazione)の前を右折すると、前方に見えて来ます。
聖堂はペッレジーナ通り(Via Vincenzo Pellegina)の真ん中に島のような形で建っています。遠目には大きな聖堂ですが、近づくとこじんまりしています。
八角形の一か所を中央祭壇として延長させ、その両脇に二本の鐘楼が建つ特異な形をしています。
1639年にエステで蔓延したペストの惨禍が終焉したことに感謝して建設されました。
聖堂内には三か所祭壇がありますが、主祭壇にはペストが市内で流行していた時に発見された聖母子のイコンが掲げられています。
その他にはエステ出身の画家のザンキ(Antonio Zanchi)作、受胎告知、聖母の結婚、神殿奉献のほか、リベーリ(Pietro Liberi)作の聖アンドレアと聖ロレンツォなど、多くの絵が飾られています。
9. Madonna del Carmine カルミネ聖堂
駅前から旧市街に向かってアメディオ通り (Via Principe Amedeo)を進み、名前がウンベルト通り (Via Principe Umberto)と変わってすぐに、水濠に沿ってモリーニ通り (Via Molini)に左折して進み、水濠に沿って右折するフィウーメ通り(Viale Fiume)と直進するレスターラ通り (Via Argine Restara)に分かれる交差路にあります。
17世紀初頭に建設されたカルメン会の聖堂です。
聖堂の正面には一か所の扉口があり、両脇の壁龕には聖人像が立ち、四本の方形の片蓋柱にはコリント式の柱頭飾りがあり、三角形の破風を支えています。屋根の上には聖母子の彫像が立ち両脇に天使の像が見えます。左手奥には聖堂に包含された形で鐘楼があります。
聖堂内は3廊式で、バロック様式です。
なお、現在廃墟となっており、聖堂としての役割を果たしていません。