アアヘン (Aachen)
街の説明
行き方
ベルギーとドイツの国境地帯にある都市です。ケルンとブルッセルを結ぶ国鉄沿線上に在りますので、ドイツからもベルギーからも訪れやすい場所に在ります。
歴史
アーヘンはローマ帝国時代から温泉が有る保養地として知られて来ました。アーヘンとは「鉱泉」を意味し、フランスからはエクス・ラ・シャペルと呼ばれますが、これは「泉の礼拝堂」を意味しています。
8世紀になってフランク王国のカール王(後の西ローマ帝国皇帝カール大帝)が宮殿を設置しました。当時の国王は一つの宮殿に滞在して自国を統治するのではなく、領地内の宮殿を巡回しながら統治していました。その宮殿の中でもカール王が好んで滞在した為に、主要な王宮として認識されるようになって行きます。外国からも文化人が集まるようになり、後にカロリング-ルネサンスと呼ばれる文化の中心となっていました。
後に神聖ローマ帝国皇帝はアーヘンの大聖堂で戴冠式を行い、ケルンの大聖堂に行幸するのが恒例となります。カール5世皇帝の時代まで継続されています。
アーヘンは国際会議の開催地として世界史上に度々名前が出ますが、特に、1748年のアーヘン条約はオーストリア継承戦争の講話条約として名を残しています。
大聖堂
フランク国王カールは786年、聖堂の建設を始め、805年に完成した宮廷礼拝堂を基礎としています。八角形の礼拝堂に載るドームは建設当時、アルプス以北では最大の建築物でした。814年にカール大帝が死去すると遺体はこの礼拝堂に埋葬されました。その後多くの巡礼者を受け入れるために周囲に拡張が繰り返され、特にカール大帝没後600年の記念行事としてゴティック様式で聖歌隊席を延長し、広い内陣を追加して現在の大きな聖堂となっています。
大聖堂は中央にドームの載る初期の礼拝堂があり、両脇にはステンドグラスの内陣と尖塔が聳え、建築様式もフランク様式、ビザンティン様式、ゴティック様式、など混合建築となっています。
なお、ドームの載る初期の礼拝堂と尖塔とは遥か高い所で、二重の橋で繋がって見えますが、後に、この場所から大聖堂が収納する四大聖遺物(聖母の衣、聖母の夫ヨセフのズボン、洗礼者ヨハネの頭蓋骨を包んだ布、キリスト磔刑時の腰布)と、その他の多くの聖遺物を巡礼に訪れた民衆に、七年ごとに公開する行為が行われてきました。
建物の周囲には聖母子、洗礼者ヨハネ、四大福音書記者、使徒、法王、皇帝など等身大以上の大きさの彫刻が多数並んでいます。
聖堂内の中央、初期の礼拝堂には天井から円形の燭台が下がり、外周壁の大理石にも内側の太い大理石の柱にも見事な波紋状が見えます。下層部を構成する三層のアーチは上部では二本の赤斑岩がアーチの中に並ぶ豪華な造りで、上層部の最上段に玉座に坐すキリストと周囲には四大福音書記者の表象が描かれ、キリストの下には聖人達が殉教の王冠を持って進み、その下の段には聖母、洗礼者ヨハネ、大天使に使徒がモザイク画で描かれています。
周廊には聖書から題材を得た多数のモザイク画が見えます。なお、カール大帝が礼拝に臨席した時の席が二階に設置されていますが、下からは一部しか見えません。
1000年にオットー3世が、1165年にはフリードリッヒ1世がカール大帝の霊安所を開帳した記録が残っています。
なお、大聖堂の近くに宝物館が在ります。カール大帝の頭骸骨の一部が収納されている胸像型の聖遺物容器やロタールの十字架、その他多くの聖遺物容器などを見ることが出来ます。
聖母聖堂 St.Marien聖堂
街の中心からやや離れた所に在る聖堂です。19世紀末の建築で、高い目立つ尖塔と八角形をした明るいガラス張りの近代的な聖堂です。
四大聖遺物の一つとされる、「聖母の衣」は巡礼者に対して、7年毎に開帳されてきましたが、その「聖母の衣」が保管されている聖堂ではありません。