ピサ Pisa
ピサ (Pisa)は、イタリアでは「ピーザ」と発音されます。イタリア中西部トスカーナ州ピサ県の県都です。
【アクセス】
フィレンツエから鉄道を利用すると一時間半程で着きます。ルッカ (Lucca)経由とエンポリ (Empoli)経由がありますので、訪問する時間を見ながら選択することができます。
ピサの駅は南端にありますので、ドゥオーモ、洗礼堂、斜塔、などのあるドゥオーモ・ミラコ-リ広場を訪れるには、駅前からバスを利用することになります。
街中までは2.5km程あります。
【歴 史】
ピサはアルノ (Arno)川の両岸に開けたローマ帝国時代からの町で、中世初期にはスペインや北アフリカとの地中海貿易で、ジェノヴァやヴェネチアと覇権を争った海運大国でした。
1063年にはイスラム教のサラセン帝国の海軍をサレルノ沖で撃破する快挙を挙げています。その後、1284年になってジェノヴァに屈し、15世紀にはフィレンツェに敗れ、その支配下に入ることになります。
城壁都市ですが、現在では城壁は北から東側に残るだけになっています。
【その他の情報】
「斜塔だけを目的にいくのはもったいない」とのこと
「JAPAN-ITALY Travel On-line」→「トスカーナの小都市を旅する」→「第2回 ピサ 『奇跡の広場』を生んだ中世海洋共和国 」
こちらには、288枚もの写真が掲載されています。
1. Duomo ドゥオーモ 大聖堂
街の北端のドゥオーモ・ミラコーリ広場 (Piazza del Duomo, Piazza del Miracoli)にあります。
1068年から50年の歳月をかけたピサ-ロマネスク様式の傑作です。
聖堂正面には3カ所の扉口があります。上層部は横四層に柱廊が並び、柱には象眼や釉薬タイルが施され、切り妻の頂点に聖母子の立像が見えます。
なお、この写真は洗礼堂から撮ったものです。
側柱はコリント式の柱頭飾りがあり、その上にライオンが載っています。
中央扉口の上のティンパヌムには天使に囲まれた聖母が色鮮やかに描かれています。
聖堂内は奥行きが100mある大きな聖堂で、ラテン十字形の三廊式です。その広さには圧倒されます。
中央主祭壇にはキリストの磔刑像が飾られ、内陣にはアンドレア (Andrea del Sarto)作「聖アグネス」他、多くのフレスコ画で飾られています。
上の凱旋門アーチの上には受胎告知が描かれ、身廊側面は白と緑の横縞の大理石で装飾され、天井は格子間です。
アプシス上の円蓋には王座に坐り、祝福のポーズをとるキリストの大きなモザイク画があります。両脇には聖母と聖ヨハネが脇侍しています。
正面向かって左手の説教壇はジョバンニ・ピサーノ (Giovanni Pisano)1302年から1311年作で、六本の柱とライオンや人物など彫刻で飾られた五本の柱が支える大きな作品で、六角形の壇上を囲む面にはキリストの生涯を表した浮彫があり、ピサーノの最高傑作の一つに数えられています。
(注:ピストイアの聖アンドレア聖堂の項をご参照ください)
聖堂内にはティノ (Tino di Camaino)作、アリゴ (Arrigo)7世教皇の墓碑の他、聖母子画、受胎告知のフレスコ画など多くの作品が見られます。
鐘楼 (斜塔:Tore Pendente)は大聖堂以上にピサを代表する建築物と言えましょう。
ボナンノ・ピサーノ (Bonanno Pisano)により、1173年に大聖堂の付属建築物として建設が始まりました。
最上部は1350年に付け加えられ、55.2mの高さになっています。
建設中から地盤沈下により傾き始め、ジョヴァンニ (Giovanni di Simone)、後にトマソ (Tommaso Pisano)の監修の下に完成させられました。良く見ると斜塔は単純な直線で建設されているわけではなく、途中で屈折していることが分かります。
崩壊防止策が施され、現在ではまた鐘楼に登ることが可能となりました。
294段の最上階からはピサ港も見えます。
なお、ドゥオーモ付属美術館 (Museo del'Opera del Duomo)からは斜塔、ドゥオーモ、洗礼堂が並んで見えますので、写真スポットにお勧めです。
2. Battistero di San Giovanni サンジョバンニ洗礼堂
ドゥオーモ正面の前にある円筒形の建物で、外観は教皇の三重冠のような造りです。
1260年、ニコラ・ピサノ (Nicola Pisano)の設計で完成しています。
中央扉口上のティンパヌムには聖母子の立像があり、下にはキリストの洗礼などの多くの浮彫があります。
側柱はアーカンサス、キリスト、聖母、大天使、聖人など数多くの繊細な浮彫で飾られています。洗礼堂の周囲は聖母子、聖ピエトロ、聖パオロ他、数多くの彫刻が並び、洗礼堂の頂点には洗礼者聖ヨハネの像が立っています。
洗礼堂内にはグイド・ビガレッリ・ダ・コモ (Guido Bigarelli da Como)1246年作、の大きな洗礼盤が置かれており、上には洗礼者聖ヨハネの像が置かれています。
なお洗礼堂の内部にも説教壇が設置されているのは特異と言えましょう。
3. Camposanto Monumentale カンポサント
ドゥオーモの北、街の城壁の近くにある大きな建物です。
ピサが海運大国を誇っていた時代の共同墓地で、1278年にジョヴァンニ (Giovanni di Simone)により建設されています。
第2次世界大戦で破壊されましたが、回廊には多くの石棺が並び、側壁にはブオナミーコ・ブッファルマッコ作、「キリストの磔刑」、「キリストの復活」、「至高天」、や「旧約聖書を題材とした物語」、戦闘場面や庶民生活など14世紀以降のフレスコ画が多く残っています。
フランチェスコ・トライーニ、またはブオナミーコ・ブッファルマッコ、若しくはアンドレア・オルカーニャ作と言われている「死の勝利 (Il Trionfo della Morte)」は、1336年から1342年に作成され、回廊から一歩入った大きな部屋の壁一面を飾るフレスコ画です。黒死病が流行した時代、身分の高きも低きも平等に襲った凄惨な死を冷徹な目で見て描いた傑作と言われています。
しかしながら、欧州各地で町が無くなったと言われる程の死者を出した1348年の大流行の年より前に描かれた、とされており、直接に黒死病を扱ったのではないとの説があります。
画面の左手下には死後の経過時間の異なる三体の死体の入った棺桶が開いており、周囲には悪臭が漂っています。通りかかった馬上の騎士たちは鼻を押さえ、犬は飛びかかっています。
画面中央では天使と悪魔が戦い、悪魔は人をさらって地獄へ連れて行こうとしています。
一方で、右手では花園で果実の下、貴婦人たちが音楽を楽しんでいます。
【注】
フィレンツエのサンタクローチェ聖堂の項、アンドレア・オルカーニャ (Andrea Orcagna)1350年作のフレスコ画「死の勝利」も参照ください。
「最後の審判」では天国と地獄への審判が行われ、地獄図の右側半分では、釜ゆで、火炙り、殺傷、逆さ吊り、など地獄に落ちた人間が多種多様な攻め具で苛まれている地獄絵が、活き活きと描かれています。
4. Santa Maria della Spina サンタマリア・デラスピーナ聖堂
駅前からアントニオ・グラムシ通り (Viale Antonio Gramsci)、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場 (Piazza Vittorio Emanuele Ⅱ)を経由し、広場左端からサント・アントニオ広場 (Piazza Sant'Antonio)を通って、フランチェスコ・クリスピ通り (Via Francesco Crispi)を北上し、アルノ川にかかるソルフェリーノ橋 (Ponte Solfelino)の手前をガンバコルティ通り (Lungarno Gambacorti)に右折すると見えてきます。
スピーナとは針のことで、その名前の通り、屋根の上には針の様な細い尖塔が数多く立っています。
ゴティック様式の小さな礼拝堂でしたが、その後14世紀初頭に、キリストが磔刑の際に被らされた荊の冠の刺の聖遺物を収容するため拡張されています。
聖堂正面は白と緑の大理石で縞模様が施され、聖母子像を収容する尖塔を中央に配置して、左右に扉口、上にアーチ、薔薇窓に切り妻の屋根と尖塔がシンメトリーに配置されています。
側面にはアーチ型の窓が並び、その上には聖人像が納められた多くの尖塔が立ち、その周囲を小尖塔が天を指差しています。
後陣外側は三連式になっています。
繊細な造りの小さい建物ですが、大聖堂を思わせる構造となっています。ジョヴァンニやピサノにより制作されています。
19世紀には地盤沈下したため聖堂はいったん解体され、東側に移設されています。
なお、季節・曜日により開いている時間が異なりますので、訪問する際には注意が必要です。
こちら↓に曜日ごとの開館時間 (orario visite)が出ています。
https://www.comune.pisa.it/it/ufficio-scheda/415/Chiesa-di-Santa-Maria-della-Spina.html
5. Sant'Antonio 聖アントニオ聖堂
駅前からアントニオ・グラムシ通り (Viale Antonio Gramsci)を通って北に向かうとヴィットリア・エマヌエーレ2世広場 (Piazza Vittorio Emanuele Ⅱ)に出ますが、その北西側にあります。
1341年に建設された聖堂ですが、第2次世界大戦で破壊され、聖堂正面のアーチと白と灰色の大理石の縞模様部分に当初の聖堂の遺構が見られます。