モンセーリチェ Monselice

モンセーリチェ (Monselice)は、ヴェネト州パドヴァ (Padova)から南西に25kmほどにある町。
【アクセス】
ヴェネツィアからは鉄道で、パドヴァ(Padova)経由で、1時間ほどで着きます。
また、ミラノからはマントヴァ(Manova)乗り換えで4時間かかります。鉄道の分岐点になっています。
街は、遠くからでも見える平野に浮かぶ山(Rocca)の西から南に掛けて広がっています。山裾に開けた街ですから道に高低差があり、道は複雑に入り組んでいます。道の名前も短い距離で変わっています。なお、街のシンボルでもある山城を頂く山は、鳥類保護区となっており、山城まで登ることはできません。
鉄道の駅は街の西のはずれにあるので、旧市街の中心までは1km程歩くことになります。
【歴史】
街の歴史は古く、ローマ時代には、火打石が露天掘りで採掘できる山があったことから、モン・シリチス(Mons Silicis)として知られていました。西ローマ帝国滅亡後はビザンティン帝国のラヴェンナの総督府により、支配されていました。街の歴史は城の歴史と重なります。
山頂の砦(Colle della Rocca)はビザンティン帝国がロンゴバルド族からの襲撃から守るためのものでしたが、6世紀末にはロンゴバルト王国の一部を構成しています。街は城壁で囲まれた城塞都市で、現在でも城壁の多くが残されています。
自治都市でしたが、グラッパ(Bassano del Grappa)の領主、ロマーノ家(Da Romano)がこの一帯を支配下に治めています。
12世紀から13世紀にかけて、北イタリアでは各都市が神聖ローマ帝国皇帝派(Ghibelline)とローマ教皇派(Guelph)に分かれて抗争が続いていました。その時期には神聖ローマ帝国皇帝派に属していました。
神聖ローマ帝国のフレデリック2世皇帝の命令で、10世紀に山の中腹に建設されていた聖ジュスティーナ聖堂を破壊し、その石材で山城を強化しています。同様に街を囲む城壁も強固にされ、特に山頂から街の南西方面に幾重にも城壁が建設されました。

麓にはエッツェリーノ3世(Ezzelino III da Romano)により、旧来の平城に頑丈な塔 (Torre Ezzeliniana)が付け加えられています。
隣街のローマ教皇派の強力なエステ家(D'Este)から包囲されたこともあります。
その後1338年にはパドヴァの領主のカッラーラ家 (Da Carrara)が街を占領し、ロマーノ家に代わって城を占有しています。この時代にも城壁が拡充されています。
15世紀になると、強大なヴェネツィアの支配下に入り、ヴェネツィアの富豪のマルチェッロ家が城を買い取り、屋敷(Ca Marcello)として改築し、拡張しています。
カンブライ(Cambrai)同盟戦争時には1510年にフランス軍により包囲されています。
その後、ヴェネツィアの没落と共に城の持ち主にも変遷が出ています。
20世紀になってチーニ (Vittorio Cini) 伯の所有となった後、現在では中世から近世の貴重な武器を展示する公営の博物館 (Castello Cini di Monselice)になっています。

また、街にはヴェネツィアの富豪の豪華な別邸が見られるように、ヴェネツィアの支配下で大きく発展しています。
ナーニ家の屋敷 (Villa Nani・Moncenigo)は15世紀末に城に隣接する場所に別荘を建て、その後山に向かって拡張させています。
ピサーニ家の屋敷 (Villa Pisani)は鉄道の駅前から旧市街に向かい、街を縦断するビザット運河 (Canale Bisatto)に出たら、運河を渡る手前で右に曲がったところにあります。
三階建のシンプルな建屋ですが、内装はフレスコ画で満たされており、華やかな建屋です。16世紀半ばに建設されており、18世紀末まで所有されていました。その後個人所有を経て、現在では公営の学校に属していますが、催物場として使用されているようです。

ドゥオード家の屋敷(Villa Duodo)は旧大聖堂の側面に沿って奥に進み、二つの立派な門をくぐって坂道を登って行くと突き当たりにあります。山城の一部を16世紀末に改築しています。現在ではパドヴァ大学が管理しています。
1. Duomo Vecchio 旧大聖堂 (Santa Giustina)

右祭壇には聖人が、左祭壇には聖母子が祀られています。
左右壁には東方三博士の礼拝、聖母被昇天、などの絵画が置かれています。説教壇は左側面の中ほどに位置しています。
なお、現在の大聖堂 (Duomo di Monselice - Parrocchia San Giuseppe Operaio)は旧市街の南端に位置し、新市街に新設された近代的な大きな聖堂です。
2. San Giorgio 聖ジョルジョ聖堂

旧大聖堂の側面に沿って奥に進み、王冠をかぶったライオンの石像の載る門柱を通り、80mほど先にある「聖なる門」(Holy Door / Roma Door)をくぐって坂道を登って行くと、突き当たりにヴェネツィアの貴族のドゥオード(Duodo)家の別荘があります。
この別荘の手前に聖堂はあります。
崖に建設されているため、正面から見ると平屋のようですが、横から見ると三階以上の高さがあります。
なお、別荘までの道に沿って並ぶ6個の聖堂が、七聖堂(Santuario Giubilare delle Sette Chiese)と呼ばれるのは、この聖ジョルジョ聖堂を到達点として数えているためです。

ドゥオード家のピエトロ(Pietro Duodo)のローマ教皇への働きが功を奏し、1651年になって、三体の殉教者の聖遺骨が到着します。この聖人の聖遺骨を収納するために建設されました。
聖堂扉口の前には柱廊があり、右手奥に鐘楼があります。
3. San Martino 聖マルティーノ聖堂

旧大聖堂の後陣の裏手に回り、急こう配の坂道を降りると、サン・ステファノ通り(Via San Stefano)とマッテオ・カルボーニ通り(Via Matteo Carboni)と、サン・マルティーノ通り(Via San Martino)とタッセッロ通り(Via Tessello)が交差する地点に出ます。
サン・マルティーノ通りで東に向かうと聖堂の正面に出ます。
一か所の扉口と上に丸窓があるだけの小さな聖堂です。切妻屋根の上に三人の聖人像が載っています。奥に鐘楼がありますが、方形の塔の上に玉葱型の青銅製屋根の載る、イタリアではあまり見かけない形をしています。
4. San Paolo 聖パオロ聖堂

ペスケリーア橋(Ponte Della Pescheria)でビザット運河 (Canale Bisatto)を渡り、ダンテ通り (Via Dante)を進み、旧市街を取り巻く城壁から城内に入る門の跡にある時計塔 (Torre dell'Orologio)から城に向かうと、右手に街の中心のマッツィーニ広場(Piazza Mazzini)があります。
広場の奥を進むと城 (Castello Cini Monselice) に至りますが、その手前で4月28日通り(Via 28 Aprile 1945)との交差点の左前方の階段上に聖堂が見えてきます。
5. Santo Stefano 聖ステファノ聖堂

街の中心のマッツィーニ広場(Piazza Mazzini)の奥からローマ通り(Via Roma)に右折し、通りの名前がバッティスティ通り(Via Battisti)に変わりそのまま進み、トリトリニ通り(Via Tortorini)とペッレグリーノ通り(Via Pellegrino)との交差点で左折し、聖ルイージ通り(Via San Luigi) と合流する先の左手に見えて来ます。
聖堂の裏手の道はサント・ステファノ通り(Via Santo Stefano)ですが、この道から聖堂には行けません。

煉瓦造りのロマネスク様式の聖堂です。正面には一か所の扉口があり、上には丸窓がある切妻屋根の聖堂です。後に両側面を対称形に拡張して扉口を設けており、少なくとも両側廊に五か所の礼拝堂が並ぶ規模になっていたと思われます。高さより幅の広い構造になっています。
奥には四角錐の屋根が載る方形の鐘楼が見えています。
現在、完全な廃墟となっており、聖堂としての役割を果たしていません。
6. Santuario Giubilare delle Sette Chiese 七聖堂

16世紀初期に起きた宗教改革に対抗し、トレント公会議後の対抗宗教改革の流れの中で、ローマでは聖フィリッポ・ネリ(Filippo Neri)を中心とした宗教活動が盛んに行われていました。その活動の一環として、聖地巡礼が推奨されましたが、遥かエルサレムまで行くことは民衆にとってかなわぬ夢でした。
そこで、キリストの聖十二使徒の筆頭者の聖ピエトロが殉教したローマに巡礼することが盛んになっていきます。ローマ市内には聖ペトロや聖ロレンツォが殉教した場所もあり、聖人ゆかりの聖堂を巡ることが流行となっていました。
ドゥオード家のピエトロ(Pietro Duodo)はこのようなローマでの行動に多大な影響を受け、モンセリチェに聖堂建設を思い立ちます。
1605年に、時のローマ教皇のパオロ5世からローマの聖人に関連する七聖堂に因んだ聖堂建設の許可を得ることに成功します。建築家のスカミッツィ(Vincenzo Scamizzi)に命じ、1610年まで掛けてローマの聖堂の縮小版聖堂を建設しました。
旧大聖堂の奥から別荘に向かう道に並行して一段上に道を設け、6つの聖堂が並んでいます。
更に、1651年に三体の殉教者の聖遺骨が到着するに至り、この殉教者の聖遺骨を収納するために改めて建設したのが、聖ジョルジョ聖堂(San Giorgio)で、七番目の聖堂に当たります。
6つの聖堂は、山の麓から順に、サンタマリア聖堂(Santa Maria)。洗礼者聖ヨハネ聖堂(San Giovanni Battista )。聖十字架聖堂(Santa Croce in Gerusaremme)。聖ロレンツォ聖堂(San Lorenzo)。聖セバスチャン聖堂(San Sebastiano)。聖ピエトロとパオロ聖堂(Santi Pietro e Paolo)と並んでいます。
どの聖堂も幅と奥行きが各5mほどの大きさで、三角形の破風が載る、同じような形をしています。聖堂と言うよりは祠ともいうべき大きさです。
聖堂のなかにはヴェネツィア派の画家のパルマ (Palma il Giovane)により、それぞれの聖堂の聖人にふさわしい絵が収められています。風化が進んでいますが、目近に見ることができます。
【参考】
1575年の聖年の年にはイタリア各地からのみならず、欧州の各地方からローマへの巡礼に大勢の人々が集まったことが記録されています。
ローマで特に巡礼者を集めた聖堂は以下の七聖堂です。
ヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂 (San Pietro in Vaticano)
サンタマリア・マッジョーレ聖堂 (Santa Maria Maggiore)
聖ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 (San Giovanni in Laterano)
サンタクローチェ・インジェルサレンメ聖堂 (Santa Croce in Gerusalemme)
聖パオロ・フオリレムーラ聖堂 (San Paolo fuori le mura)
聖ロレンツオ・フオリレムーラ聖堂 (San Lorenzo fuori le mura)
聖セバスティアーノ・フオリレムーラ聖堂(San Sebastiano fuori le mura)
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